成雄君の部屋
成雄君の部屋
その⑨ 台風の爪痕
≪北欧風の山小屋≫のPR記事を、夕刊の片隅に見つけたのが、運の尽きだった。
フィンランドからだったかノルウェーからだったか忘れたが、部材一式直送してもらえて、素人でも組み立てられるという。勉強や趣味の部屋に最適で、9㎡だから建築許可もいらないと説明されていた。
買った。
当時まなりやの屋上は平屋根で、子供が三輪車で遊べるぐらいの広さがあった。
バケツリレーの要領で部材を屋上に引っ張り上げた。道路からベランダへ、ベランダから屋上へと。
ブロックを並べた上に、釘は使わず、校倉式の要領で加工済みの板材を組んでいく。ドアや窓も嵌め込み式で思いのほかスムーズに出来上がった。余った木材でベッドを作ったが、今思えば、あの部材はどこかで使わなければならなかったかもしれない。
とにかく出来上がったので、独り身のぼくは、さっそく北欧風の山小屋で寝起きすることにした。屋上だから遠くからでもよく見えるようだった。
「鳩でも飼い始めたのですか?」と駅前の写真屋のおじさんは同居中の姉に声をかけたらしい。
その後、結婚したので屋上生活は2年で終わりになったが、生まれた子供の手形や足形で、鱗がわりに毎年少しずつ色を付けていくアイデアで特注した5mの鯉のぼりを泳がせたときには、近くの内科医院の先生から直接電話をいただいた。
「真っ白な鯉のぼりは、どこの地方の風習ですか?」
屋上にはまだスペースが残っていて、流しそうめんに最適だった。孟宗竹を二つに割って節を削り、雨樋の形にしたものをコの字型につないだ。二階の洗面所からホースを引いて物干し台に括りつければ、程よい傾斜でそうめんを流すことができた。楠葉の≪花火大会≫鑑賞付き『流しそうめんの集い』は、我が家の夏の風物詩になった。
ところが、花火大会の開催場所が枚方大橋に移って、屋上からはほとんど見えなくなったので『流しそうめんの集い』はやめてしまった。鯉のぼりを泳がせることもなくなった(そもそも5mの鯉が大きすぎた)。いつの間にか、オシャレな北欧風の山小屋は、本とキャンバスを詰め込んだ物置になっていた。
平成10年(1998)9月、台風7号が襲来した。
ついに、その時がやってきたのだった。
一階の整骨院は臨時休業にした。小学校も警報が出てお休みになったので、子供は三人とも家にいた。テレビは、刻々と近づく台風の位置情報を画面の端っこに表示し続けていた。窓ガラス越しに外の様子をうかがっていた長女が
「あの草、大丈夫かな?」といった。
見ると、道路をはさんで南隣のお家の、屋根瓦の端に生えている10センチほどの草が一本、風に揺れている。茎は細く頼りなげで、風向きによっては大きくしなるので、娘は心配になったようだった。
「家の陰だし、大丈夫だろう。」とぼくは適当なことを言った。
やがて風は加速度的に強くなり、暴風になった。屋根の草はいよいよ激しく、千切れんばかりに揺れている。何か飛んでくると危ないからと、ガラス戸から離れて北側の部屋へ全員移動した。
風の唸り声は、いよいよすさまじいものになった。
「きっと今がピークだな」とぼくは声を掛けた。家族全員、だまって頷いた。
その時、カラカラーンと乾いた音が響き渡った。高架脇の道路を金属性の物体が転がっていく音だった。
「なんの音?」と家内が言った。
次の瞬間、重い、腹の底に響くような不気味な音が、避難した部屋の壁の向こうで轟いた。
今度は半分立ち上がって家内が叫んだ。
「え、何?」
電話が鳴った。北隣のお宅の奥さんからだった。
「お宅の家の屋根が、うちの家の屋根に落ちました」
雨交じりの暴風である。サッシのドアから、ベランダに出るだけでも勇気がいる。いわゆる決死の覚悟が必要だった。手すりにしがみついて階段を6段登ると、鉄柵の隙間から、かろうじて屋上を覗き見ることができた。
戦後生まれのぼくは、廃墟というものを見たことがない。テレビのドキュメンタリーや歴史本の記念号などでたまに見かけることがあるものの、それらは過去の映像や写真で、たいがいモノクロだった。
しかし、いま目の前には、規模は小さいながら本物の、総天然色の、荒涼たる風景があった。
小屋の上半分が吹き飛んで、雨に濡れた文庫本が猛烈にはためいている。キャンバスも飛び出さんばかりに身をゆすっている。先ほどの乾いた金属音は、屋根がめくれあがった勢いで、おそらく投石器の原理で飛んでいった、鯉のぼりを泳がすための折り畳み式のステンレスの筒に違いなかった。ぼくは慎重に後ずさりして、帰還した。受話器を取って、
「今はどうすることもできないので、ちょっと待ってください」と、いったん電話を切らせてもらった。そうして、すぐに119番通報した。
「土足でいいですか?」
真っ赤な消防車を従えて駆けつけたレスキュー隊が、お隣の屋根の上で仰向けになった北欧風の山小屋の引き上げ方法について検討を始める頃には、雨や風も収まり、青空さえのぞき始めていた。ご近所さんも周辺道路に集まり始めた。屋上のレスキュー隊員と消防車を交互に眺めながら、何ごとかをささやきあっている姿が見える。台風通過直後の、妙に澄み切った空気の中で、何一つ有意義な仕事を思いつくことができない自分が不思議だった。
「危険ですから下がってください」
お隣の屋根に上がって、北欧風の山小屋にロープをかけたレスキュー隊員が、7人がかりで引き揚げ作業を開始した時、ぼくは一番近い見物人だった。
北欧風の山小屋の上半分は、手際よく、鉄柵を乗り越えて我が家の屋上に転がされた。
レスキュー隊員と入れ替わりに、馴染みの大工さんが、お隣さんの様子を観察して報告してくれた。
「二階は雨漏りしてますねえ」と大工さんは言った。
「天井の張替えはできるだけ早くやりますわ。瓦屋さんもすぐにやってくれそうですし」
ぼくは、大工さんと二人でしばらくの間、屋上の小さな廃墟とお隣さんの破壊された瓦屋根を交互に眺めていた。
きつかったですねえ、飛ぶんですねえ、と大工さんはつぶやきながらベランダまで下りたとき、
「いいですか?」と足元を指さした。
「いいですよ」とぼくは言った。大工さんは土足のまま、不安げな表情の家族が待ち構えるリビングルームを突っ切って、玄関口まで下りて行った。
ぼくは、少し迷ったが、ベランダで外履きのスリッパを脱ぐことにした。腰をかがめたとき、何気なく南隣のお家の屋根に目がいった。屋根瓦の端で暴風と闘っていた10センチほどのその草は、何事もなかったかのように、雨上がりの微風にそよいでいた。
その⑧ 夜尿症
寝小便ほど気持ちの良いものはないだろう。両親に挟まれて、人肌の極致のようなぬくぬく感に包まれてみる夢は特別なものだ。ストーリー展開によって紆余曲折があるものの、やれやれ間に合ったかと気持ちよく放尿すると、そこはまだ布団の中なのだった。冬場など立て続けにしくじることもあった。そんな時、親父は間に合わせに自分の寝間着を脱いでぼくを包んでくれた。だから親父は裸で寝ていることがあった。
布団は日当たりのいい場所に干された。物干し竿を二本渡して、庭のど真ん中に吊るしたり、離れの二階の窓から屋根瓦の上に広げたりした。だから前の道を歩く人には、寝小便がすぐばれた。
小学校を卒業するころになると、親もさすがに心配し始めた。母は、誰から聞いてきたのか、鶏のトサカが効くといって甘辛く炊いてくれたのだが、形がそのままなので、とても喉を通らなかった。
修学旅行が最大の山場だった。母は、担任の先生に内密に不安を打ち明けたようだった。
「大丈夫ですよ」と先生はいってくれたらしい。
「ほかにも、ションベンたれはおるけん、じゃて」と母は投げやりな言い方をした。
ぼくは出発の二日前から、減量中のボクサーのように水分量を制限された。そのかいあって修学旅行は無難に乗り切ることができたのだが、中学生になってからもしくじることがあった。さすがに自分でも心配になってきたが、ひょんなことから夜尿症から解放さることになった。
ある本の中に、坂本龍馬は15歳まで寝小便をしていた、と書いてあるのを発見したからだった。優秀な人間は寝小便をする期間が長いのだ、と妙な優越感の芽生えのなかで、ぼくは自身の夜尿症を肯定し、納得したのだった。
多少残念ではあったが、ぼくの夜尿症は15歳になる前にすっかり治ってしまった。
その⑦ 自転車と10円玉
今まで無事に生きてこられたのがそもそも幸運だった。もっとも、不運を不運と感じない鈍感力が優位の人間、人生なのかもしれないのだが。
タイミングが少しでもズレていたら、死んでいたのではないかと思うことが、子供の頃にはあるものだ。
「馬、見に来るか?」と古野君に誘われたのは、小学校4年の時だった。
島では珍しいことだったが、彼の家には農耕馬がいた。当時は温州ミカンよりも畑作の方が盛んだったのかもしれない。薄暗い納屋の奥に栗毛の、頭の大きな馬がいた。子供の背丈からはそう見えた。
「乗せてやろか」と親父さんが言った。
ぼくは尻込みした。馬の背中に放り上げられた自分の姿を想像したが、ちっとも楽しい気分にならなかったからだ。
「今日はええけん」とぼくは小声で返事した。
親父さんは、「ほーか」と笑い、鎌を腰に下げたまま玄関から家に入っていった。
広々とした草原を馬に乗って走り回る日など来るものだろうか、などと考えながら、自転車に乗って帰った。
古野君の家は山手にあったから、帰り道は下り坂である。コンクリートで固められた島で一番大きな用水路に沿って、海岸道まで一気に下っていく。風を切って走る。風景は流れる。道路わきのミカンの木が濃い緑の帯になる。
それにしても子供の視力は恐るべきものだ。用水路のフチに10円玉が落ちているのを発見したのだった。
急ブレーキをかけた。10円玉を拾うためにブレーキから手を離した。離した瞬間、自転車は残っていた慣性力でグイと前進した。用水路に、ぼくは自転車ごと、真っ逆さまに転落した。
幸い用水路には胸のあたりまでの水かさがあったし、通りがかりのおばさんが近所のおじさんを呼んでくれたので、ぼくはすぐに道路に引き上げられた。
「あぶなかったなー」とおじさんが用水路に目配せした。
見ると、墜落した場所から2mと離れていないところに、巨大な岩が横たわっている。
「あの岩に落ちたら死んどったのう」とおじさんは言った。
「なんでまた、こんなとこで」とおばさんが言った。
ぼくは、10円玉がその辺に落ちていること。それを拾おうとして落ちたこと。全身ずぶぬれだけど寒くはないこと、などを説明した。
「こりゃ、あんたのじゃけん」
おばさんは拾ってきた10円玉をぼくの手に握らせた。そして、
「あぶにゃーのう」と言った。
濡れてへばりついたズボンのポケットに10円玉をねじ込んで、ぼくは自転車にまたがった。ハンドルのゆがみは、おじさんが直してくれたのでまっすぐ走れた。海岸道に出ると家まで一直線だ。走りながら、ぼくはときどき、ズボンの上から手のひらで触って、太ももの上の10円玉の在りかを確かめた。
その⑥ クロ兵衛
さほど広くない庭にチャボと犬を一緒に飼うのは、いくら田舎とはいえ、無理があった。
東天紅の血が入っている大柄なチャボだったので、仔犬のうちは、遊び相手として共存しているようにも見えた。ところが三月もたたないうちに、寝そべっていたクロ兵衛(キャラメル色の柴犬の雑種で、右頬から耳にかけて落書きのような黒毛があったのでクロ兵衛と名付けた)が立ち上がっただけで、チャボの親子が一斉に動きを止めて警戒行動をとるようになった。チャボは放し飼い状態だから、猫除けになるかと思って野良の仔をもらったのだが、甘かった。やはり犬はいらないと結論した。
中学生の兄と一緒に、島の反対側へ捨てに行くことにした。一周22キロの島だが、中央にトンネルができたので島の裏側まで楽に行くことができる。
登りが急になると、ぼくは兄の自転車の荷台から降りて歩いた。クロ兵衛は頭から布袋をかぶせられておとなしくぼくに抱かれていた。
トンネルを抜けると、ミカン畑を区画する曲がりくねった下り坂の先に平屋の小学校が見下ろせた。民家がないから、運動場と古びた木造校舎がそのまま砂浜と海につながっているように見える。ブレーキをかけるたびにぎくしゃくする自転車の荷台で、ぼくはクロ兵衛を抱く力に気を配りつづけた。だから砂浜に降りてかぶせた布袋をとったとき、クロ兵衛は元気いっぱいだった。
脚が砂につくや否や、全身を波打たせてつんのめりながら走り出した。十メートルほど走ったところで急に立ち止まり、振り返った。ぼくが手を振るしぐさを確認すると、また、一散に走り出した。
ぼくと兄は乾いた砂に腰を下ろして海を眺めた。ベタ凪で、波打ち際にほとんど動きがないので、満ち潮か引き潮かはっきりしなかった。沖合の島影もぼんやり霞んで形もはっきりしない。
クロ兵衛は右や左に行ったり来たりして遊んでいたが、やがて飽きてしまい、ぼくと兄の間に坐りこんでしまった。
日曜日の昼下がりの、小学校前の砂浜は静かだ。海水は透明度が高く、差し込む光をはじいている。水底の白い砂にはじかれた光は、風に揺れるポプラの小さな葉のように、反転しながらきらめいて、水面のかすかな揺らぎを教えてくれる。明るく音のない、ぼくたちだけの世界だった。
ついに、兄は立ち上がった。ミカンの枝を投げた。クロ兵衛の瞳に輝きが戻った。得意げに枝を咥えて帰ってきた。二回目はもう少し遠くの波打ち際まで投げた。そうして三回目に、力を込めてブーメランのように投げた。ミカンの枝は放物線を描いて海まで届いた。果敢に海に入っていくクロ兵衛のうしろ姿が、一瞬視界の隅に残った。
防波堤の切れ目をすり抜けて、兄とぼくは全力で走った。兄は慌てて自転車を倒しそうになったが、なんとか踏ん張って、走りながら乗った。ぼくは、ありったけの速さでトンネルの入り口を目指してミカン畑を駆け上がった。肩で息をしながらトンネルの入り口で、ぼくは残してきた風景を見下ろした。
主人の姿を懸命に探すクロ兵衛の姿が、小さく見えた。砂浜を走っていたかと思うと、小学校の運動場に入り込んで一周し、また砂浜に戻って走りだすのが見える。方向を変えたり、不意に加速したりしながら、あてどのない走りを止める気配がなかった。このまま、いつまでもいつまでも、飼い主を探して走り続けるのかもしれないと思った。ぼくにはクロ兵衛の荒い息遣いが届いたが、それは悲鳴のようだった。
その⑤ 百円ライター
≪純喫茶シャルマン≫で、ぼくは臙脂のベストを着てバーテンダーの真似事のようなアルバイトをしていた。ホットケーキを焼いたり、缶詰のフルーツと牛乳をミキサーにかけて、ミックスジュースを作ったりした。店には高校を出たばかりの若者が何人かいて、早出と遅出を入れ替わりながら働いていた。
由美ちゃんは美人ということもなかったが、制服のミニスカートが似合っていたし、気立てもよく、冗談が言えたので一番人気があった。「ジュースちょっとしか入ってないやん!氷だけや」などと嫌味を言われて突き返されると、ストローをさしたままのグラスをシルバーに載せて仰々しく持ち帰り、ぼくに向かって思いっきり舌を出したりした。
二浪して石膏デッサンにも飽きてしまい、美大受験をすっかりあきらめてしまった、寒い冬のことだった。
ママが早帰りしたので、ぼくと由美ちゃんがレジを閉めて帰ることになった。喫茶店の隣が銀行で、夜になると車道との間にちょっとしたスペースができる。そこがラーメン屋台の定位置だった。若い男が三人、ちょうど屋台から出てくるところだった。由美ちゃんと同い年のFとその連れのようだった。Fは早出の時、線路向かいのパチンコ屋で遊ぶことがよくあった。Fが由美ちゃんに声をかけた。
「パチンコ勝ったし、今から飲むねん。一緒に来えへんか」
ぼくは急に気分が悪くなった。Fのぞんざいな誘い方が気に入らなかったのだ。同僚の女性に対する感性というものが、雑で、荒っぽく、自分をひと回り大きな人物に見せようとする気配さえも感じられる口ぶりだったからだ。
「あたし、帰るわ」と由美ちゃんは言った。
ぼくは、ほっとした。由美ちゃんが歩き始めると、Fは一歩詰め寄って彼女の腕をつかんだ。
「ええやんか」とFは若者らしくない下卑た口調になった。
「やめてよ」
由美ちゃんの声音には、女の子が同学年の男子に対してもっている、上から目線の余裕のようなものが、まだ残っていた。
「来いよ」とFがなおもしつこく言うのと同時に、
「俺の女に手を出すな」
ぼくは自分でもびっくりするほど大きな声をだした。普段、乱暴な物言いをしないぼくが、芝居の決め台詞を真似て大声を出したものだから、Fは一瞬あっけにとられて掴んでいた手を離した。ぼくと由美ちゃんがすでに良い仲だと早合点したのかもしれなかった。冗談半分の思い付きで言ったのだが、Fの受け止め方によっては危険な事態もあり得た。しかしもう、嘘でも本当でも、どっちでもいいような気分だった。由美ちゃんは僕の左腕を抱きかかえるようにして歩き始めた。ぼくは今まで感じたことのない高揚感に包まれた。
道は右折すると勾配の強い上り坂になる。不規則に曲がりくねっていて、土地勘のない人は、この道が成田山不動尊につながっているとは思わないだろう。由美ちゃんはぼくの腕を抱えたままだった。ぼくは小さく身震いして肩をすぼめ、薄手のフレンチコートに両手を突っ込んだ。由美ちゃんもぼくのコートのポケットに手をすべり込ませてきた。ぼくたちは左のポケットの中で手を握り合った。
百円ライターを右のポケットの中で、擦ってみた。短い、シャッという音がして、刹那、小さな炎が生まれる。こうすると冷え切った指先が暖まることを知っていた。炎はコートの生地を透かして、腰のあたりをぼんやり明るくする。由美ちゃんは気づいてなかったろうが、ぼくは、繰り返しくりかえし、ポケットの中で百円ライターを擦った。
人通りの途絶えた暗くて寒い冬の坂道を、ぼくたちはふざけて、歩道と車道を行ったり来たりしながら登って行った。ところどころで、ポッと明るくなりながら・・・。
その④ 自治会館
役員会で夏祭りの打ち合わせをしているときだった。
「通気口を金網でしっかり塞いでやりました」と自治会長が副会長のぼくにいった。
近ごろ自治会館の床下にタヌキが住みついており、野菜畑に被害が出ているので何とかしてほしい、と申し入れがあったと、二三日前の立ち話で聞いたところだった。
自治会長は労を惜しまぬマメな人で、手先も器用だから何でも修繕した。町内のソフトボールチーム≪ソフト86≫が花見で使うBBQの道具も、阪公園に捨てられていたものをリヤカーで拾って帰り、鉄板で補強して使えるようにした。会館の庭の草刈りはもとより、餅つきの臼の傾きを直したのも、年末の大掃除で誰よりも多くの電柱に登って濡れ雑巾で街灯を拭くことができるのも、自治会長だった。
「やっぱり通気口から出入りしてましたか」とぼくは呑気に答えた。
それにしても手早く直したものだと感心したが、ひとつだけ気がかりなことがあったので
「床下にタヌキが閉じ込められたりはしていませんか?」と訊いてみた。
「さあー、それはわからんけど」と自治会長は苦笑した。「まあ、おらんやろ」
ぼくの頭の中には、薄暗がりで身をひそめているタヌキの親子がいた。今もこの床下で、大小いくつかの光る眼が行き場を失って物悲しく歩き回っているのを想像すると、不憫だった。
「いっそ捕まえてタヌキ汁にでもしますか」とぼくは軽口をたたいた。
「それはいかんわ。野生動物は病気を持っとるから食べたらいかんわ」と自治会長は間髪を入れずに答えた。
自治会長も、一度はタヌキ汁が頭をよぎったに違いない。
その③ ミルクチョコレート
同窓会のあとで小さなスナックへいった。Mは東京の大学を出て松山に帰り、親の会社を継いでいたのでつき合いも広く、このあたりの歓楽街にも詳しそうだった。ぼくは高校の3年間、下宿と学校を往復していただけだから、飲み屋どころか喫茶店さえ知らないのだった。
いくらか年かさの、あご髭のあるお兄さんとカウンターをはさんで坐ると、Mが大柄なこともあって何となく窮屈に感じるほど狭い店だった。ほかに客はいない。大学の先輩で趣味が合うんよ、と紹介してもらった。二人は、ひとしきりモダンジャズの新譜の話題で面白がっていたが、門外漢のぼくには入っていけない話だった。
そのうちあご髭のお兄さんがカウンターの下から一冊の本を取り出した。
「なんといっても今はこれだよね」といってMと僕の間に表紙を上にして置いた。
「うまいもんだよなあ。時代だね。もう読んだ?」
Mとぼくが同人雑誌に参加していることを聞いて、気を使って話題を変えてくれたのだった。しかし、ぼくはまだ『サラダ記念日』を読んでいなかった。
それどころか、ぼくは店に入る前から≪成雄君≫のことが気になってしかたなかったのだ。だから、お気に入りの短歌をいくつか諳んじてくれたのだが、うわの空だった。
大街道から一番町あたりで横辻に入ると歓楽街になる。ぼくはMの後ろから少し遅れながらついて行った。道の両側からせり出した猥雑な電飾と呼び込みで人の流れが邪魔されるので、ぼくたちはスナックに向かってジグザグに歩いた。
ピンサロの呼び込みの中に、目を引く男がひとりいた。長袖の白衣を着て首から聴診器をぶら下げているのだが、なんとなく所在なげに突っ立っているだけだった。すれ違いざま、ぼくは男の顔を見た。成雄君だった。
「何してんの」とぼくは足を止めた。
小学校を卒業すると、彼は松山の学校に転校したので、10年以上会っていなかったのだが、彼もぼくの顔を瞬時に思い出したようだった。バツの悪そうな、それでいて、いたずらを母親に見とがめられた時の、隠しきれない無邪気なうれしさが瞳の奥から湧き出てくるような、愛すべき表情が、そこにはあった。あの時と同じように、半笑いの目の奥に・・・。
「今から成雄君を探します」
授業が始まるとすぐ、先生はそう宣言して教室を足早に出て行った。6年松組の生徒は、いくつかのグループに分かれて思い思いの方向に探索に出た。成雄君がいなくなるのは初めてではない。みんな要領がわかっていた。港の待合所周辺を探すグループもあったが、ぼくは正門前の締め屋(鶏の毛をむしって売っていた)の裏の畑を探すグループにはいった。が、少し歩いたところで、ふとあることを思い出した。ぼくはひとりで学校に引き返した。
理科室の裏にちょっとした空き地がある。喧嘩を始めたやつがいると、ここへ連れてきて決着をつけさせることがよくあった。それはガキ大将だったぼくの仕事だった。その空き地と隣の家との間には板塀がある。学校側からは見えないが、隣家に回り込めば、板塀の根元に地蜘蛛の巣がいくつもあるのを思い出したのだ。
成雄君は、そこにいた。しゃがみこんで、ストッキングのようなクモの巣を慎重に持ち上げているところだった。
「何してんの」とぼくは声をかけた。
成雄君はしゃがんだまま左手の握りこぶしを突き出した。そしてバツの悪そうな半笑いとともに、握った手のひらをそっと開いた。そこには、ミルクチョコレート色の地蜘蛛が二匹、おとなしく丸くなっていた。
その2 父の遺言
「お前たちのことを思ってやったことだ。許してくれ」
父は弱々しくそう言い残して逝った。
49日の法事を済ませて、残された親子3人で松花堂弁当を食べているときのことだった。
「『許してくれ』なんて親父は言ったけど、何のことか、お母さん心当たりあるの?」
不意に、兄が訊いた。
「そんなこと言ったの。へえー、あの時はとにかく気ぜわしくて、お父さんが何を言っているのかあんまり身を入れて聞いてなかったし・・・」
「確かにそんなことを言ったよ。成雄も聞いたよなあ」
「うん聞いた」
「そうなの?何のことだろうね。お父さん、まじめな人だったけど」
「去年の春」と成雄は、炊き合わせのそら豆を割り箸の先で転がしながら言った。
「壊れていた壁掛け時計を、お父さんが直そうとしたことがあったんだよ。3時間くらいかけたけど、結局、直すどころか元の形に組み立てられなくて、粗大ゴミとして捨ててしまった。僕はそのことを一番に思い出した」 兄も母も、その時初めて、壁掛け時計が我が家から姿を消していることに気がついたようだった。
「だとしても」と母が言った。「そんなこと、いよいよという時に言い出すものかしら」
「もう少し大事なことだろうよ」と兄は言った。
しばらくの間二人とも、怪訝そうな目線を、食い散らかした松花堂弁当の上に泳がせていた。
その1 モロッコ産のタコ
池袋パルコ7階食堂街のサラダショップで一年間働いたが、大阪に帰ることにした。
ハタチの男がだらしなく暮らした木造アパートの四畳半は、悲惨だ。敷布団などは、顔が当たるところが薄汚く変色していて、どう処分したものか、いい知恵も浮かんでこなかった。三カ月ごとに天地を逆にし、裏表をひっくり返しながら、ごまかしごまかし使ってきたので、どう丸めても見苦しい代物になり果てていたからだ。
ちょうどそんなとき、僕より若い男が働き始めた。店長の遠い親戚にあたるとかで、口数の少ない男だった。彼、成雄君は中学を出るとすぐに遠洋漁船に乗せられてモロッコの沖でタコ漁をしていたという。英語は喋れるようになった?と僕が聞くと、斜視の顔を傾けてニヤッと笑った。
「船から降りること、あんまりないんで」
成雄君が部屋を探していることを知って、僕はすぐに声をかけた。営業時間が終わって残飯を台車に載せ、専用エレベーターで降りるとき
「僕の部屋でよかったら、何もかも全部置いていくから、どう?」
何もかもとはいってもたいした物はない。湯沸かしポットとハードカバーの本が数冊と一年間釣銭を放り込んで貯金箱になった菓子箱と、それから布団一式であった。押入れの開き戸に張ったキャンバスの油彩画は丸めて大阪へ持って帰るつもりだった。
業務用洗剤とキャベツの汁がしみ込んだ、胸まである大きな黒いエプロンから目を離さずに
「いいんですか?」と成雄君は言ってくれた。
大阪に帰ってしばらくの間は、店での僕の評判はガタ落ちになっただろうと気にはなったが、半年もしないうちに、ほとんど思い出すこともなくなった。
アートギャラリー まなりや
大阪府枚方市。京阪本線 牧野駅から徒歩3分のアートギャラリー。