成雄君の部屋

成雄君の部屋

その⑤ 百円ライター

≪純喫茶シャルマン≫で、ぼくは臙脂のベストを着てバーテンダーの真似事のようなアルバイトをしていた。ホットケーキを焼いたり、缶詰のフルーツと牛乳をミキサーにかけて、ミックスジュースを作ったりした。店には高校を出たばかりの若者が何人かいて、早出と遅出を入れ替わりながら働いていた。
由美ちゃんは美人ということもなかったが、制服のミニスカートが似合っていたし、気立てもよく、冗談が言えたので一番人気があった。「ジュースちょっとしか入ってないやん!氷だけや」などと嫌味を言われて突き返されると、ストローをさしたままのグラスをシルバーに載せて仰々しく持ち帰り、ぼくに向かって思いっきり舌を出したりした。
二浪して石膏デッサンにも飽きてしまい、美大受験をすっかりあきらめてしまった、寒い冬のことだった。
ママが早帰りしたので、ぼくと由美ちゃんがレジを閉めて帰ることになった。喫茶店の隣が銀行で、夜になると車道との間にちょっとしたスペースができる。そこがラーメン屋台の定位置だった。若い男が三人、ちょうど屋台から出てくるところだった。由美ちゃんと同い年のFとその連れのようだった。Fは早出の時、線路向かいのパチンコ屋で遊ぶことがよくあった。Fが由美ちゃんに声をかけた。
「パチンコ勝ったし、今から飲むねん。一緒に来えへんか」
ぼくは急に気分が悪くなった。Fのぞんざいな誘い方が気に入らなかったのだ。同僚の女性に対する感性というものが、雑で、荒っぽく、自分をひと回り大きな人物に見せようとする気配さえも感じられる口ぶりだったからだ。
「あたし、帰るわ」と由美ちゃんは言った。
ぼくは、ほっとした。由美ちゃんが歩き始めると、Fは一歩詰め寄って彼女の腕をつかんだ。
「ええやんか」とFは若者らしくない下卑た口調になった。
「やめてよ」
由美ちゃんの声音には、女の子が同学年の男子に対してもっている、上から目線の余裕のようなものが、まだ残っていた。
「来いよ」とFがなおもしつこく言うのと同時に、
「俺の女に手を出すな」
ぼくは自分でもびっくりするほど大きな声をだした。普段、乱暴な物言いをしないぼくが、芝居の決め台詞を真似て大声を出したものだから、Fは一瞬あっけにとられて掴んでいた手を離した。ぼくと由美ちゃんがすでに良い仲だと早合点したのかもしれなかった。冗談半分の思い付きで言ったのだが、Fの受け止め方によっては危険な事態もあり得た。しかしもう、嘘でも本当でも、どっちでもいいような気分だった。由美ちゃんは僕の左腕を抱きかかえるようにして歩き始めた。ぼくは今まで感じたことのない高揚感に包まれた。
道は右折すると勾配の強い上り坂になる。不規則に曲がりくねっていて、土地勘のない人は、この道が成田山不動尊につながっているとは思わないだろう。由美ちゃんはぼくの腕を抱えたままだった。ぼくは小さく身震いして肩をすぼめ、薄手のフレンチコートに両手を突っ込んだ。由美ちゃんもぼくのコートのポケットに手をすべり込ませてきた。ぼくたちは左のポケットの中で手を握り合った。
百円ライターを右のポケットの中で、擦ってみた。短い、シャッという音がして、刹那、小さな炎が生まれる。こうすると冷え切った指先が暖まることを知っていた。炎はコートの生地を透かして、腰のあたりをぼんやり明るくする。由美ちゃんは気づいてなかったろうが、ぼくは、繰り返しくりかえし、ポケットの中で百円ライターを擦った。
人通りの途絶えた暗くて寒い冬の坂道を、ぼくたちはふざけて、歩道と車道を行ったり来たりしながら登って行った。ところどころで、ポッと明るくなりながら・・・。

 

 

 

その④ 自治会館

 役員会で夏祭りの打ち合わせをしているときだった。 
「通気口を金網でしっかり塞いでやりました」と自治会長が副会長のぼくにいった。
近ごろ自治会館の床下にタヌキが住みついており、野菜畑に被害が出ているので何とかしてほしい、と申し入れがあったと、二三日前の立ち話で聞いたところだった。
自治会長は労を惜しまぬマメな人で、手先も器用だから何でも修繕した。町内のソフトボールチーム≪ソフト86≫が花見で使うBBQの道具も、阪公園に捨てられていたものをリヤカーで拾って帰り、鉄板で補強して使えるようにした。会館の庭の草刈りはもとより、餅つきの臼の傾きを直したのも、年末の大掃除で誰よりも多くの電柱に登って濡れ雑巾で街灯を拭くことができるのも、自治会長だった。
「やっぱり通気口から出入りしてましたか」とぼくは呑気に答えた。
それにしても手早く直したものだと感心したが、ひとつだけ気がかりなことがあったので
「床下にタヌキが閉じ込められたりはしていませんか?」と訊いてみた。
「さあー、それはわからんけど」と自治会長は苦笑した。「まあ、おらんやろ」
ぼくの頭の中には、薄暗がりで身をひそめているタヌキの親子がいた。今もこの床下で、大小いくつかの光る眼が行き場を失って物悲しく歩き回っているのを想像すると、不憫だった。
「いっそ捕まえてタヌキ汁にでもしますか」とぼくは軽口をたたいた。
「それはいかんわ。野生動物は病気を持っとるから食べたらいかんわ」と自治会長は間髪を入れずに答えた。
自治会長も、一度はタヌキ汁が頭をよぎったに違いない。

その③   ミルクチョコレート

 同窓会のあとで小さなスナックへいった。Mは東京の大学を出て松山に帰り、親の会社を継いでいたのでつき合いも広く、このあたりの歓楽街にも詳しそうだった。ぼくは高校の3年間、下宿と学校を往復していただけだから、飲み屋どころか喫茶店さえ知らないのだった。
いくらか年かさの、あご髭のあるお兄さんとカウンターをはさんで坐ると、Mが大柄なこともあって何となく窮屈に感じるほど狭い店だった。ほかに客はいない。大学の先輩で趣味が合うんよ、と紹介してもらった。二人は、ひとしきりモダンジャズの新譜の話題で面白がっていたが、門外漢のぼくには入っていけない話だった。
そのうちあご髭のお兄さんがカウンターの下から一冊の本を取り出した。
「なんといっても今はこれだよね」といってMと僕の間に表紙を上にして置いた。
「うまいもんだよなあ。時代だね。もう読んだ?」
Mとぼくが同人雑誌に参加していることを聞いて、気を使って話題を変えてくれたのだった。しかし、ぼくはまだ『サラダ記念日』を読んでいなかった。
それどころか、ぼくは店に入る前から≪成雄君≫のことが気になってしかたなかったのだ。だから、お気に入りの短歌をいくつか諳んじてくれたのだが、うわの空だった。
大街道から一番町あたりで横辻に入ると歓楽街になる。ぼくはMの後ろから少し遅れながらついて行った。道の両側からせり出した猥雑な電飾と呼び込みで人の流れが邪魔されるので、ぼくたちはスナックに向かってジグザグに歩いた。
ピンサロの呼び込みの中に、目を引く男がひとりいた。長袖の白衣を着て首から聴診器をぶら下げているのだが、なんとなく所在なげに突っ立っているだけだった。すれ違いざま、ぼくは男の顔を見た。成雄君だった。
「何してんの」とぼくは足を止めた。
小学校を卒業すると、彼は松山の学校に転校したので、10年以上会っていなかったのだが、彼もぼくの顔を瞬時に思い出したようだった。バツの悪そうな、それでいて、いたずらを母親に見とがめられた時の、隠しきれない無邪気なうれしさが瞳の奥から湧き出てくるような、愛すべき表情が、そこにはあった。あの時と同じように、半笑いの目の奥に・・・。
「今から成雄君を探します」
授業が始まるとすぐ、先生はそう宣言して教室を足早に出て行った。6年松組の生徒は、いくつかのグループに分かれて思い思いの方向に探索に出た。成雄君がいなくなるのは初めてではない。みんな要領がわかっていた。港の待合所周辺を探すグループもあったが、ぼくは正門前の締め屋(鶏の毛をむしって売っていた)の裏の畑を探すグループにはいった。が、少し歩いたところで、ふとあることを思い出した。ぼくはひとりで学校に引き返した。
理科室の裏にちょっとした空き地がある。喧嘩を始めたやつがいると、ここへ連れてきて決着をつけさせることがよくあった。それはガキ大将だったぼくの仕事だった。その空き地と隣の家との間には板塀がある。学校側からは見えないが、隣家に回り込めば、板塀の根元に地蜘蛛の巣がいくつもあるのを思い出したのだ。
成雄君は、そこにいた。しゃがみこんで、ストッキングのようなクモの巣を慎重に持ち上げているところだった。
「何してんの」とぼくは声をかけた。
成雄君はしゃがんだまま左手の握りこぶしを突き出した。そしてバツの悪そうな半笑いとともに、握った手のひらをそっと開いた。そこには、ミルクチョコレート色の地蜘蛛が二匹、おとなしく丸くなっていた。


その2   父の遺言

「お前たちのことを思ってやったことだ。許してくれ」
 父は弱々しくそう言い残して逝った。
49日の法事を済ませて、残された親子3人で松花堂弁当を食べているときのことだった。
「『許してくれ』なんて親父は言ったけど、何のことか、お母さん心当たりあるの?」
不意に、兄が訊いた。
「そんなこと言ったの。へえー、あの時はとにかく気ぜわしくて、お父さんが何を言っているのかあんまり身を入れて聞いてなかったし・・・」
「確かにそんなことを言ったよ。成雄も聞いたよなあ」
「うん聞いた」
「そうなの?何のことだろうね。お父さん、まじめな人だったけど」
「去年の春」と成雄は、炊き合わせのそら豆を割り箸の先で転がしながら言った。
「壊れていた壁掛け時計を、お父さんが直そうとしたことがあったんだよ。3時間くらいかけたけど、結局、直すどころか元の形に組み立てられなくて、粗大ゴミとして捨ててしまった。僕はそのことを一番に思い出した」 兄も母も、その時初めて、壁掛け時計が我が家から姿を消していることに気がついたようだった。
「だとしても」と母が言った。「そんなこと、いよいよという時に言い出すものかしら」
「もう少し大事なことだろうよ」と兄は言った。
しばらくの間二人とも、怪訝そうな目線を、食い散らかした松花堂弁当の上に泳がせていた。

その1   モロッコ産のタコ

池袋パルコ7階食堂街のサラダショップで一年間働いたが、大阪に帰ることにした。
ハタチの男がだらしなく暮らした木造アパートの四畳半は、悲惨だ。敷布団などは、顔が当たるところが薄汚く変色していて、どう処分したものか、いい知恵も浮かんでこなかった。三カ月ごとに天地を逆にし、裏表をひっくり返しながら、ごまかしごまかし使ってきたので、どう丸めても見苦しい代物になり果てていたからだ。
ちょうどそんなとき、僕より若い男が働き始めた。店長の遠い親戚にあたるとかで、口数の少ない男だった。彼、成雄君は中学を出るとすぐに遠洋漁船に乗せられてモロッコの沖でタコ漁をしていたという。英語は喋れるようになった?と僕が聞くと、斜視の顔を傾けてニヤッと笑った。
「船から降りること、あんまりないんで」
成雄君が部屋を探していることを知って、僕はすぐに声をかけた。営業時間が終わって残飯を台車に載せ、専用エレベーターで降りるとき
「僕の部屋でよかったら、何もかも全部置いていくから、どう?」
何もかもとはいってもたいした物はない。湯沸かしポットとハードカバーの本が数冊と一年間釣銭を放り込んで貯金箱になった菓子箱と、それから布団一式であった。押入れの開き戸に張ったキャンバスの油彩画は丸めて大阪へ持って帰るつもりだった。
業務用洗剤とキャベツの汁がしみ込んだ、胸まである大きな黒いエプロンから目を離さずに
「いいんですか?」と成雄君は言ってくれた。
大阪に帰ってしばらくの間は、店での僕の評判はガタ落ちになっただろうと気にはなったが、半年もしないうちに、ほとんど思い出すこともなくなった。



アートギャラリー まなりや
大阪府枚方市。京阪本線 牧野駅から徒歩3分のアートギャラリー。

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